December 04, 2013

神様のお皿

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僕が好きな話に、こういうのあるの。
僕たちは、みんな。
ひとりの神様から分かれた存在だという話。


神様は万能、なんでも創造出来るから、無限の存在です。
そんな自分では知り得ないもの。

『有限』って、なんだろう?

知りたいなと、思ったの。



そこで、自分の一部を切り離して、この世界に送り、
私たちとして生まれました。

神様は、いろいろなその「私たち」の人生の中で、
有限になった自分を感じたいと考えたのね。


あるときは、才能のある画家の人生。
じゃあ次は、才能のない画家の人生。

神様は私たちとして、
それぞれの喜びと苦悩を味わうために、その人生を歩みます。


僕たちみんなが、そんな「神様」だったなら。

絵画の才能のあるなしに関わらず、その人生を楽しめばよいの。
私たちは、ひとりひとりがその目的のために完璧です。

私たちは、変わる必要はなく、
また、なにひとつこの世界を変えることは必要ではないの。


私たち、みんながそうであるように、
この世界も神さまの目的のために、完璧だからです。



もし、世界の成り立ちを、そう仮定するなら。
私たちの世界では、すべて私たちが承諾したことが起こっています。

都合の良い、悪いはあるけど、
全部、私たちが予約しておいたディナーみたいなものです。

私たちは料理の出来の良い悪いばかり云って、食べるのを忘れているの。
だからずっと同じ皿。

それは「悪」だと拒絶することは、
お皿を自分の手の届かないところに遠ざけるのと同じ。

それを食べる(解決)することが、出来ない状態でいる。
私たちは、その料理を食べに来たのだから。

うーん。ちょっと悲しいな。これが悲しいか。なるほど。
わお。嬉しい。この感情は楽しいな。

神様のお皿。
こころに咲くそれぞれの想いを、ただありのまま食べる。
『受け入れる』って、そういうイメージだと思う。

確かに、美味しくない皿もあるけど、
食べてしまえば、その皿はおしまい。
次の皿が来る。


そんな、、
『この世界に起きていることを、誰かのせいにせずに、すべて良しとする』
 起こりうるすべてを、自分に原因があるとする考え方があります。

自分を責めることではないですよ。
そんなんしてたら、辛くなっちゃうもの。

それは、すべてが自らに由とするということだと思うの。
目に映る世界の在り方は、私たちの想いが作っています。

自分を変えていくことで、すべてを自由に作り替える。
そういう世界の変え方があるの。


例えば。

もっと幸せになりたいと望めば、幸せとそれ以上の不幸せを引き寄せます。
困ってる人を助けようとすれば、よりたくさんの困った人を引き寄せます。

答は、いつも逆説的です。

もっとを手放せば、ここにある幸せを見つけられる。
「困った人を助けなければならない」を手放すことで、困った人をなくする。

ものごとの善悪を手放せば、悪いことも、良いことに変換できる。


この世界の在り方に責任を持つ人が、
本当の意味で、世界を変えていけるのだと思う。


この世界は美しくて、残酷です。
それぞれに、良い悪いは、あるのですけど。

いまを生きて、そこに生まれる気持ちを、ただ味わえばよいのだと思うの。


そしたら、いつか神様に帰るとき。
いっぱい、お土産話が出来るかもね^^。


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この記事へのコメント

1. Posted by papa   December 08, 2013 09:17
多神教も、一神教も、根は同じです。
見方の違い思います。

いままで、いろんな場所で生きてきて、
どんな場所でも、学ぶ事はありました。
良いことも、辛いこともありましたが、
ただ、人を楽しませたいという気持ちから出たものは、間違いがありませんでした。

僕の前の記事は、どこかそれと違うものから生まれていて、それがブログの空気感を壊していると感じます。

ぶつかるのではなく、手放すことで変えていくという考え方を、神様のお皿の話は提案しています。

例えば、お金を欲しいと願っても、
意識が、お金のない現実に向いているかぎり、
よりお金のない現実を引き寄せます。

僕が、レストランを通して、人を楽しませたいと、
心から願えば、楽しみたいお客さまを引き寄せます。
お金が儲かるのは、結果です。

今、変えたいと願うものごとに、
正面からぶつかることを否定しませんが、
逆説的なものごとの考え方、解決方法もあります。

私たちが受け取るものは、人に与えるものです。
確かに原因が、すべて自分にあるとする考え方は、
一見、受け入れがたいのだと思いますが、
それは可能性ということですから。

敵も愛せるくらいなら、自分が受け取るものは、愛だけです。
どんな宗教が優れているわけでなく、云っていることは、同じ。
神様がどんな形でも良いの。
僕、形に興味ないですし。

昔、奮闘記で戦っていた僕は、
戦いたかっただけ思います。
戦わないという選択もあるのです。

でも、戦っていた日々も、思い出せば、
良い思い出ですから。
あって良いと思います。

2. Posted by loveanimals   December 08, 2013 14:05
こちらも拝見させて頂きました。
既に何度かお話させて頂きましたので、papaさんのことで勘違いが解けた部分もありますが、私のことは少々勘違いされているように思いますので一言だけ。
(一言にしては長くてすみません。)

多分動物に対して「可哀想」と言う言葉だけを取り出して話していたような気がしますが、まず私が動物たちに持っている最初の感情は「可哀想」ではありません。
「愛情」です。愛しているから殺されて欲しくない、生きて欲しいと思うのです。
そして非肉食を選択したのと同時に一番強く感じたのが「差別」でした。日頃愛しいと思って接している猫たちと畜産動物は何が違うんだろうと。
その違いが自分の中で説明出来なかったから肉食をやめました。
3. Posted by loveanimals   December 08, 2013 14:07
昔「グレートハンティング」と言う映画を観たことがあります。
冒頭いきなり動物の首が飛ぶシーンから始まるんですが、その日は肉が食べられませんでした。
そして「ALIVE(生きてこそ)」と言う映画の中では、飛行機の墜落により雪山で生き残った人たちが2択を迫られます。自分が生きるために死体を食べるか、食べないで死ぬか。
この映画は実話に基づいたものですが、食べて生き残った人と食べずに死んだ人、両方いました。
その映画を観た時に私は、自分は食べないで死のうと思いました。どんな状況に置かれたからと言っても、人間は食べられないと思ったからです。
そしてペルーの友人宅を訪れた時、滞在中私が可愛がっていたウサギが滞在最後の日にお皿の上に載って出てきた時。。。申し訳ないと誤りましたが、どうしても食べられませんでした。
でも結局はその後何年も肉食をしていました。
忘れてしまったから、又はなかったことにしたからだと思います。だから食べられたんです。
でも、感じる、元は生きている動物だと言う意識が働くと食べられないんです。
映画を観たあの日のように。可愛がっていたウサギが出されたあの日のように。
要するに、見てみないふりをせず、現実を受け止めて自分に正直になると「動物は食べ物ではない」と言う結論に至ると言うことです。
4. Posted by loveanimals   December 08, 2013 14:11
すみませんが、私は私に起きることは全て自分に責任があると思っています。
ただ、何故それほど、自分に責任がある→自分を責める→辛くなる、と考えるのかがわかりません。
私は自分に責任があると思う方が安心出来るからです。
ですから、起こること全てに喜怒哀楽を感じ、それによって自分の行動を選択出来る人生の方が有意義だと感じられます。
そして、私は神の分身でも他の誰でもなく、私は私です。

最後に、私が戦いを挑んでしまうのは、戦いたいからではなく、物言えぬ動物たちの代弁者だと思って下されば、多少の理解もして頂けるかと思います。

(papaさんのブログを読んでいらっしゃる方に。
私の自己紹介のようなコメントですみませんでした。)
5. Posted by papa   December 08, 2013 15:25
原因と結果の話は、受け止めきれないほど、辛い想いをいまされている方には、残酷に響くことがあります。

私は私、神様は私。
同じ事柄の違う見え方です。
頭に輪っかをつけている人を神様だと考えていると、誤解されてしまいます。

戦いに正しさを定義するなら、
その戦いはあなたの嫌う戦争と同じになりますよ。
正しさの名における行いは、その正しさとは異なります。

前から思っていたのですが、ミドリムシは動物ですか。
どこまでの大きさの動物に霊が宿るのでしょう。
食べなければ、何者も、殺さずに生きていけますか。
私たちが生きていくなかで、消えていく小さな命は、
仕方ありませんか。

分からない、理解できないでは、分かり合えません。
6. Posted by 花 世   December 08, 2013 16:43
雲水(禅宗の修行僧)である星覚さんのブログ。
ベルリンで、座禅をはじめ、禅を伝えられている方です。

http://www.higan.net/unsui/2012/07/7.html

おせっかいな事は承知で、リンクを貼ります。
パパさんと似ているけれど、異なります。

異なっているその部分にloveanimalsさんの想いと向き合っている姿勢があるのではと思います。
7. Posted by papa   December 08, 2013 17:04
なるほど。違います。

とても勉強になりました。
ありがとうございます。
8. Posted by シナモン   December 08, 2013 20:40
いつもブログ、更新を楽しみに拝見しております。
・・・ですが、投稿ははじめてです。
ちょっと緊張しますね!(苦笑)
でも、今回の記事は、一行一行にあまりに共感してしまったので、思わずコメントしないではいられませんでした。『神との対話』を、短くギュッと凝縮した感じ。
深いです・・・。

そんな深い話を、お料理、お皿にたとえてあるのが素敵です。
papaさんならでは、で。

いつも、「人を変えることはできない。自分を変えればいい」と思い続けてきましたが、それが「すべてを自由に作りかえる」ことだったのか!!!と、いまさらながら目からウロコでした。

本当に、美しくて、残酷な、いとおしい世界ですね。

何度も読み返させていただきました。
ありがとうございました。

9. Posted by 。   December 09, 2013 00:36
前のコメントに返ってしまうのですけれど、

食物を選べる環境にいる私たちは
幸せだと思うのです。

世界で最初に農耕が始まったのは、
8000年ほど前のメソポタミアでしたっけ?

雑多な野生の植物の中から麦が選ばれ、
栽培され始めました。
でもそれは、
一部の肥沃な三角地帯に限った話で、
同じオリエントでも、
高地(寒くて荒れた土壌の地)では、
農耕はままならず、
人々はやむを得ず家畜を飼い、
夏はその乳を飲み、
牧草も生えなくなる冬は、
乾燥バターや家畜そのものを食糧として
生き延びてきたのです。

家畜は何より大切なもので、
家族であると同時に、命の糧でもありました。
ですから、
神に捧げる最高の貢ぎ物は家畜で、
それは、ほふられた状態で祀られました。
(日本人も、神さまに捧げ物をしますが、
“穢れ”を嫌う日本人は、
血と共に捧げることは、決してしません。
狩猟採取の時代から、
放牧を経ずに農耕の時代に移った民族は、
珍しいのだそうです。
豊富な天地の恵みが、
日本人独特の死生観を生み、
特別な場合以外に、
獣の肉を食することは
長い間タブーとされてきました。
加えて、仏教の伝来と共に、
憐れみという思想も入ってきました。
日本という国に生まれて
育つということは、
そういう素地を持つということです。)
10. Posted by 。   December 09, 2013 01:00
ドイツでは今でも、
冬が近づくと豚を潰して
ハムやウインナーを作り始めます。
血や臓物も余すところなく
加工されていきます。

ヨーロッパは、
私たちが考えている以上に寒冷で、
農耕には厳しい土地柄だそうです。

食糧が足りないなら
他国(よそ)から輸入すりゃいい
と、甘えた考えでいる日本人の菜食よりも、
厳しい環境を受け入れて、
その中で自給自足を目指す彼らの肉食の方が、
食べ物に対しても、生き物に対しても、
ずっと真摯に向き合っている気がします。

酪農は、年中無休の上にかなりの重労働です。
手塩にかけて育てた家畜を、
食肉として差し出す時の気持ちを、
想像してみて下さい。
本来、肉を食する全ての人が負うべき罪悪感を、
代わりに背負っている人の気持ちを…
そのせいで、非道と罵られる人の気持ちを…。

批判をするのは、たやすいことです。
どれだけのものを見て、
どれだけのことを学んで、
どれだけの背景を知り、どれだけの側面を知り、どれだけのことをしてきた上での批判か、
が、人の心を動かすには
大事な要素だと思うのですよ。

奥出雲で酪農をなさっている方で、
乳牛を厩舎に入れず、
山のなかで自然放牧している方が
おられます。
お産も自然の中で行われます。
母牛と子牛を引き離すこともしません。
山に生えている草が、牛たちの餌です。

お乳を搾る時は、
人が牛のいる山に登って搾ります。

肉牛ではありませんが、家畜として飼われている以上、
やがては、食肉となる運命でしょう。

そういう形の終わり方もあります。

あら、何の話でしたっけ?
11. Posted by loveanimls   December 09, 2013 02:33
>花 世さん、
拝見致しました。
とても楽しく読ませて頂きました。
紹介して頂き、ありがとうございます。

星覚さんの苦悩、やろうとしていること、やりたいこと、すごく良くわかります。
そして彼の言う「声を上げることも大事」だと言うこと。
私も日々悩んで苦悩して、多くのことに目を向けて、色んなことを勉強して、声を上げて生きていきたいと思います。

仏教の教えの中に慈悲というものがあると思います。生きとし生けるものを苦から救済するという利他行を展開せしめる原動力がこの慈悲である、と。
正に現在の自分の根底に流れているものだと思います。
12. Posted by papa   December 09, 2013 08:31
慈悲は、もっと大きく深いものです。
自分の都合で、アレは活かすけど、これは活かさないいう私たちの哀れみの感情と同じものではありません。

例えば。
マラリアを媒介する可能性を持つ蚊が自分の子供の頭にとまっていたら、どうされますか。
逆に、お腹を空かせた子供を抱えた母熊があなたを襲ったら?

自分の弁論に都合よく使う前に、慈悲の意味を考えられてください。

怒りが生まれたとき、それがいかに重要で、正当であるかのいい訳を私たちは探します。
怒りを表すことで、ものごとが上手く運ぶこともありますから、そこに満足感もありますが。それは独りよがりな感情に過ぎません。
それが戦争の在り方です。

それで世界の在り方は変わらないのです。

怒りの感情がどこから来ているのか。
それを自分の中に探されたことがありますか。
怒りの感情を生んでいるのは、可哀想な動物たちの在り方ではないのです。

僕が星覚さんに感じたのは、無我です。

世界の在り方に、善悪は見え方の違いでしかないと理解していても、
なかなか、私たちが、良い悪いを手放すことが出来ないのには、理由があります。

私たちはこうありたい、こうなりたいという願いで、
ときに今の自分を受容することが出来ないでいます。

良い悪いという判断は、自分の外にもあふれ出し、
その処理作業で一生のかなりの時間を費やしています。

例えばヴィッパサナー瞑想のように、自分の意識を内側に向けて、それを観察し、手放していく技術があることに、私たちが気がつけるのなら。
もっと簡単に、世界の有り様は自由に変えられる。
その可能性について書いた記事です。

牛を救いたいという気持ちは、わかりました。
最初から、それを否定してはいないのです。
それを救うために、違うプロセスもあると提案しています。

善悪を外すには、自己受容という許しが必要です。
それを実践し、分かりやすく伝えてみることに、興味があります。



13. Posted by papa   December 09, 2013 08:54
シナモンさんに。
次は楽しかったり、人の役に立つ記事を書きたいと思います。
ありがとうね。
14. Posted by papa   December 09, 2013 09:12
もさん。

ベジタリアンやマクロビオティックについて考えるとき。
ずっと前から、その理論にひとつだけ違和感がありました。

それが植物性のものを食べることでのみ、人は心の平穏をうみ、平和に生きていける社会を築ける。戦争を生むのは肉食であると云う考え方です。

考古学からみて、狩猟時代の人間は、ひとりでは獲物を倒せないことが多く、チームプレーで狩りをして、その恵みに感謝し、仲間と分かち合う。そういう社会を構築していました。現代でも、動物性を食べていても、こころの平穏を保つ人はいます。

人間がひとつの場所にとどまり、村を形成し、やがて国を形成することに至れたのは、農業革命とよばれる「栽培」の発明、そして「蓄える」という考え方です。
穀物食になったことで、食料の確保に関わらないで済む人間を生み、文化が生まれる反面、人は戦争をするようになります。

冷蔵庫の導入で、分かち合うことを忘れてしまったモンゴルの人の話ように、
私たちを分け隔ててしまったのは、蓄えることを前提とした社会のシステムです。

また穀物食も人間の歴史に関与していると指摘する学者もいて。
それは人間が本来、暮らしていた平原の水辺から、隔離され、十分な動物性脂肪を吸収出来ないことによる、脳内の変化が一因をになっていた可能性が大きいという点です。
科学的根拠に見て、その可能性が否定できません。

それでは、穀物を食べることによって、人間は人間になったという理論は、ある意味、皮肉ではないでしょうか。

常識とされることは移り変わる頼りない概念です。
それを基準にした善悪の戦いは、根拠を持ちません。
どれだけ正しい心から生まれたものでも、
どれだけ優しいこころが生んだ理由でも、
悪を作り、それと戦うことは無益ではないでしょうか。
15. Posted by papa   December 09, 2013 09:21
思うのです。

私たちは、常に考え方が閉じていないか、チェックする必要があります。
人と同じで安心しているうちに、国ごととんでもない方向に引きずられてしまうこともあるの。

この世界で出会うものが、かならず美しいとは限りません。
でも、残酷さの中にも、美しさは潜みます。
自分を許し、良い悪いを外して、それを観察できるなら、
どんなものにも、その輝きを見つけられると思うのです。

そこに生まれる気持ちを、ただ味わう。
それでどうなるか、僕はまだ知りません。

それを試してみたいと思うのです。

16. Posted by 。   December 09, 2013 13:10
お花は食べないけど、野菜は食べる。
雑草は容赦なく引っこ抜くけど、
お花や野菜は大事に育てる。
ごきぶりや蚊を見かけると即攻撃するけど、
蝶やカブトムシは血眼になって捜す。
鮫とは闘うけど、イルカとは仲良し。
同じ動物でも、ペットだと食べないけど、
家畜だと食べる…

人間て、つくづく勝手な生き物です。
そして、生き物である限り、
他の生き物の命をいただいて、
自らの命をつなぐしかありません。

例え、食を断ったとしても、
自らの身体を食べて生き長らえるしくみに
なっています。
断食=究極の肉食でしたね、たしか…
断食の後に出る宿便を、
それまで身体の中にため込んでた便が
ようやく出てきたものだと
勘違いなさってる方が多いのですけど、
あれは、自らを食らったことによる
肉食の便です。

マクロでも、しばしば断食を勧めますけど、
見方を変えれば、
共食いの勧めですよね?

人は、罪深い生き物です。
そして、矛盾を抱えた生き物でもあります。

罪を犯さない、矛盾も認めない、
なんてところから始めるから、
おかしくなるんだと思います。

自らの罪深さと限界に向き合うところから、
本当の慈悲が生まれると、
私は思います。
17. Posted by itsuko   December 09, 2013 18:50
papaさん

私も肉食に対し声を上げていたひとりですが、以前のコメントで考え直すきっかけを頂きました。
ありがとうございました。
ずっと前から真剣に命に向き合ってこられた方なんだと感服しました、さすがです。papaさんの美味しいお料理にもそれが反映されているのですね。

みなさんのコメントを読んでいると、みんなが笑顔でいられるように、それぞれの方法を提案しているように思えます。とても素敵なブログです。

これからも楽しみに読ませて頂きます!





18. Posted by papa   December 09, 2013 21:32
ありがとうございます。
まだ、花世さんから教えてもらった『人は同じという立場で、相似を探す』に、至れなくて。
並行線の議論ばかりで、申し訳なく思います。

僕は菜食の料理人ですから。
レシピを作り続けることで、日本の菜食に貢献出来ればと思います。
さて、仕込みしよか(^_^;)。
19. Posted by itsuko   December 09, 2013 23:40
papaさん
本当にありがとうございました!

この本おすすめです。

植物の神秘生活―緑の賢者たちの新しい博物誌 ピーター・トムプキンズ http://www.amazon.co.jp/dp/487502133X/ref=cm_sw_r_udp_awd_jwDPsb1KEXFWN
20. Posted by おにさぶ   December 10, 2013 00:42
papaさん、いつも素敵なお料理(まだ未体験ですが…汗)とあたたかい文章をありがとうございます。

前回の投稿からさまざまな意見が交わされ、
色んな側面と向き合うきっかけを下さっていると思います。
こんな機会はなかなか日常的にはありえませんもんね。

「ただ、いま、この瞬間に、在るということ。」

もし戦いがあるとするなら、コレ↑とだと思います。
自分の中で永続的に繰り返される、自分の中のもの。

この世の中の、在るもの、起こること、
すべてに理由があります。
完璧なことがあるとするなら、ココだと思います。

自分が知っていることなんて、
ほんのわずかでしかありません。
大局をとらえようとすることが大切なんではなくて、
自分自身がいまこの瞬間に、どう在るかに集中することが
生きることだと思います。

それぞれに歩んでいる道は違います。
papaさんも、星覚さんも、みなさんも、
それぞれにキラキラ輝いて生きていらっしゃる。
その歩みは決して完璧に完成されたものではない。
それが生きること。

papaさんはきっと今頃、
みんな元気に、幸せになってねって願いながらで、
野菜を洗ったり、粉計量したりしてるんだと思います。

papaさんには、papaさんでこその魔法があります。
その魔法でたくさんの人が幸せになってると思います。

これからも、papaさんの魔法を楽しみにしています。














21. Posted by 。   December 10, 2013 02:21
心に残る言葉は、沢山あります。

高校の時の友人が言った…
「言葉ってね、口から出た瞬間、自分のものじゃなく他人のものになるの。」

社会人になって出来た親友の言葉…
「優しさって、想像力なんだよ。」

アンナという小さな女の子が放った
「私たちに見えてるお花の色が、そのお花が嫌って跳ね返した色なんだとしたら、神さまが目に見えないのは、誰のことも嫌ってないからなのね。」

親愛なるライナス・ヴァンペルトの台詞…
「どんな問題も、逃げ切れないほど大きかったり難しかったりしない!」
セラピスト試験の課題図書の題名…
「一隅を照らす」

亡くなった父の言葉…
「病気になった身体というのは、ひびの入った茶碗と同じ。乱暴に扱えばすぐに割れてしまうが、大事にすれば、ずっと使える。」

長いので省きますけど、鞍馬寺にある「光の書」

目にした言葉も、耳にした言葉も、
何かしら、私に影響を与えてくれています。


自分と違う意見、違う物の見方に触れることで、
例え、自分の考えそのものは変わらなくとも、
それは、
もっと深く広いものになる気がするの。

自分の考えが絶対に正しいと思ってるから、
完璧だと思ってるから、
口にするわけじゃないの。

例え、未熟だとしても、
今自分に出せる最高の答を示すことが、
対話する時の礼儀だと思うから、
敢えて口にするの。


最期の瞬間まで、上を目指していたいですわねぇ。
より良く、より優しく、より公平で、より美しい…
そんな上(答)を目指して。

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